高槻はやっぱり最高だった。

今日は、楼門朝市。その後、若木町婦人会総会。震災瓦礫の話をメインにしました。このBlogが書き終わったら、庭木ダムの花見、シルバーケア武雄の花見などに呼ばれています。

さて、昨日は、高槻にいました。僕も深く関わっていた、JR高槻駅前の市街地大規模開発。そのお披露目の式典が。あいにく雨だったので、エリア内の関西大学で行われました。
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ちょうど、9年前の今日。総務省から出向という形で、高槻市役所の市長公室長(企画広報部長)に着任しました。右も左も分からない私を、当時、立花理事、伊藤主幹、そして、財務部長の畠中さんほか皆さんが、よくサポートして頂きました。公私を超えて、皆さんとは、仕事しまくり、遊びまくり、しょっちゅう、京都を始め、いろんなところに出かけてました。2年8か月思い切り仕事をさせてもらいました。

時には、進める政策で対立もしましたが、高槻市を良くしたい、しようという気持ちは同じ。皆さんが退職しても、そして、僕が武雄に戻ってからもずっと付き合いが続いていました。

このBlogでも紹介しましたが、関西大学の誘致は、私の存在無くしてできなかったでしょうが、一方で、僕だけいてもどうにもならなかった。僕は、確かに、協調性も無い、集団行動もできない、そんな人間ですが、仕事をする上で、チームの大切さ、人の力を引き出すことは、高槻市役所で知りました。同時に、仕事は人間を大きく成長させると。そういったことを学びました。
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そして、僕が市長選でこの大規模再開発事業を途中で降りたとき、大きな混乱が起きたそうですが、これをバネに、僕が作ったスキームよりもさらに良いスキームを作ってくださったのも、この高槻市役所で一緒に働いていたチームの面々。そういうメンバーと再会できたのも嬉しかった。梅ちゃん、荒井さん、倉橋さん。

そんな中で、最も、喜んでおられたのが、事務局長を務めている畠中さん。名物部長として名を馳せ、退官後は、この再開発の事務局長。途中、病魔に侵され、しかし、気力で復活し、これだけの事業をたった2年で完成させる。畠中さん無くしては、この大事業はできなかった、僕はそう思っています。お疲れさまでした。

僕はそんな皆さんと、30代の半ば、ともに仕事ができたこと、心から誇りに思っています。そして、皆さんに成長させてもらいました(あんまり変わらないと言われそうですが(笑))。ありがとうございます。

追伸)会場で、辻元清美さんと、震災がれきの話を始め、いろんな政策の話をしましたが、思った以上に柔軟な方でした。やっぱり、応援すべきは、党ではなくて、個人ですね。
by fromhotelhibiscus | 2012-04-01 11:04
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